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東大寺東塔跡の現説 [歴史]

昨日朝から東大寺東塔跡の現説に。人はそれほどでもなかったが、重源さん勧進の鎌倉の七重塔。大きかった。柱間が仁王門と同じかと帰りに見上げた。久しぶりに大仏殿。塔の模型を見る。何年振りか・・。

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下ツ道発掘現説・・・行けませんでしたが [歴史]

今日18日が大和郡山の西名阪郡山インターの南西側で下ツ道の遺構が出て、現地説明会があったのですが、
残念ながらいけませんでしたので、街の紹介を兼ねて、新聞記事からご紹介しておきます。

新聞記事から「奈良時代の官道「下ツ道」180m出土…大和郡山・天理


市道(中央)の両側に出土した下ツ道(13日、奈良県大和郡山、天理両市境で)
 奈良県大和郡山市と天理市境の八条北遺跡で、奈良時代の官道・下ツ道(しもつみち)が約180メートルにわたって出土した。これまでに確認された下ツ道としては最長で、13日発表した県立橿原考古学研究所は、平城京と藤原京を結ぶ幹線道路として大きな役割を果たしたことがわかるとしている。

 平城京羅城門の南4・6キロに当たる場所で、当時の路面は残っていないが、幅は約19メートルで、現代の4車線道路に相当する。東西に側溝があり、東側溝(幅7~11メートル、深さ1・4~2メートル)が長さ120メートル、西側溝(幅1・2~1・8メートル、深さ0・2~0・5メートル)が長さ183メートルにわたり出土した。

 東側溝は幅が広く、平城京造営時に資材を運ぶ運河として使われたとみられ、祭祀(さいし)用の銅鈴1点や土馬10点なども出土した。

 日本書紀には、壬申(じんしん)の乱(672年)で大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)の軍が下ツ道を進んだと記され、奈良時代以前から重要幹線だった。平城遷都後も貴族や庶民が通っていたとみられる。

 現在の市道とほぼ重なっており、菅谷文則・同研究所長は「奈良では、古代の都市計画が1300年後にも生かされている」と話している。

 高速道路のジャンクション建設に伴い発掘した。」(読売2,011,11,14から)
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「柳澤信鴻とその時代」柳沢文庫 [歴史]

大和郡山は江戸時代中ごろ享保年間に甲府から柳沢吉里が移付されてきます。以降の街づくりは柳沢家とともにあります。
吉里→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E9%87%8C

二代 信鴻さんはあまり知られていないのですが・・・・。

柳沢文庫 秋季特別展『柳澤信鴻とその時代展』(10/1〜12/15)が開かれています。

文庫の解説では「柳澤信鴻(のぶとき、伊信〈これのぶ〉、享保9年〈1724〉~寛政4年〈1792〉)は柳澤吉保の孫・郡山藩柳澤家初代吉里の子にあたり、和歌・俳句、絵画など様々な文芸に秀で、観劇好きでもあった文人大名として知られています。一方、郡山藩主としての業績についてはあまり知られていません。本展示では文人大名としてだけでなく郡山藩主としての信鴻や彼の生きた18世紀後半の社会について郡山藩領や大和国を中心に紹介していきます。」

拝見しましたが、3枚の絵画はうまいですね。伊藤若冲の絵も購入したようで、影響があると解説にはあります。
郡山城に散歩がてらお出かけされてはいかがでしょうか。
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ウイキペディアから
柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主・柳沢吉里の四男。

信鴻の日記 [編集]隠居後に祖父・吉保の築いた江戸六義園に居住した。亡くなる間際まで『宴遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残した。天明・寛政期の政治社会状況が克明に記されているだけでなく毎日の江戸(南関東)の天候が記されている事から、近年では天明の大飢饉の原因となった天候不順の実態解明にも役立てられている。

年譜 [編集]1724年(享保9年):吉里の四男として生まれる
1737年(元文2年):将軍初見
1738年(元文3年):帝鑑間詰
1745年(延享2年):吉里死去、柳沢家相続
1773年(安永2年):隠居(10月3日)、六義園で隠居生活を送る
1785年(天明5年):出家
1792年(寛政4年):死去、享年69
官位位階 [編集]1738年(元文3年):従四位下、美濃守
1773年(安永2年):左兵衛尉

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新木山古墳 [歴史]

窯元から10分ほど歩いたところに、地元では丸山古墳、正式には新木山古墳と呼ばれている古墳があります。

はじめて、宮内庁が調査して研究者に見学許可されたみたいですね。残念ながら、市民は拝見できませんが・・。
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asahi.comから

「■築造時期1世紀前か 埴輪が出土、決め手に


 11日に公開された大和郡山市新木町の陵墓参考地、郡山新木山(にきやま)古墳では、古墳時代中期(5世紀前半ごろ)と見られる埴輪(はにわ)が出土し、古墳の築造時期は従来より1世紀もさかのぼる可能性が出てきた。


 宮内庁によると、墳丘の裾に葺(ふ)き石が見つかり、円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が数百点出土。祭祀(さいし)用とみられる笊(ざる)形土器、中世期の陶磁器や銅銭も見つかった。


 発掘現場は歴史・考古学系15学会が見学。一部の研究者らは同市内で検討会を開いた。大阪市大の岸本直文准教授(考古学)は「埴輪が出土したおかげで築造時期を特定できた。郡山地域の古墳を考える上で重要な成果だ」。大阪大大学院の福永伸哉教授(考古学)は「この古墳は情報が少なく、測量図を見て古墳時代後期(6世紀前半ごろ)と判断するしかなかった。宮内庁は陵墓や陵墓参考地の情報をもっと出してほしい」と話した。」
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産経では「 宮内庁は11日、皇族が埋葬された可能性があるとされる大和郡山市の郡山新木山古墳(郡山陵墓参考地)の発掘現場を報道関係者や考古学の研究者らに公開した。

 老朽化している同古墳の柵に変わり、盗掘や堀への転落防止のための外溝柵を設置することになり、遺構や遺物の確認、保全方法などを考える目的で発掘調査が進められていた。同庁は今回の調査で同古墳について「築造時期は5世紀前半ごろとみられる」との見解を示した。

 同古墳は全長約120メートルの前方後円墳。これまでの調査で墳丘裾部分12カ所から、100点以上の埴輪(はにわ)などが出土しているという。築造時期をめぐっては、形状などから6世紀ごろの古墳時代後期とする説もあったが、出土した円筒埴輪の模様の特徴などから築造時期を判断したという。」
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毎日では「新木山古墳:5世紀前半築造か 古いタイプの埴輪を発掘、野焼き示す黒斑 /奈良
 宮内庁陵墓課は11日、「郡山陵墓参考地」として管理している新木山(にきやま)古墳(大和郡山市新木町)が、これまで考えられていたより古い5世紀前半に築かれた可能性が高いことを明らかにした。墳丘の葺石(ふきいし)はほとんど失われており、16世紀末に築かれた郡山城の石垣の裏込め石に使われた可能性があることも分かった。

 墳丘を囲う柵の設置に先立ち、墳丘すそを12カ所、計約120平方メートル発掘した。出土した埴輪は円筒のほか家形など。円筒の破片に野焼きを示す黒斑があったことなどから、5世紀前半の古いタイプの埴輪で、古墳はこの時期に築造された可能性が高まった。

 一方、通常、墳丘を覆うはずの葺石がごくわずかしかないことも判明。近くの郡山城が16世紀末に全面改修された際、石垣用の石材として各地から墓石や石製の地蔵まで集められていることが分かっており、同課は新木山の葺石もこの時に回収された可能性があるとみている。

 岸本直文・大阪市立大准教授(考古学)は「築造時期が古墳時代中期前半までさかのぼり、郡山城の整備のために墳丘まで削り込まれていることも分かったのは、とても興味深い」と話している。【山成孝治】」

郡山整備にも関係しているのは驚きです。
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小谷城郷土館の講演会 泉森 皎先生  「行基と大野寺土塔の建立」 [歴史]

第十八回小谷城郷土館文化財講演会にいってきました。

大阪堺市 泉ヶ丘センタービル

講師  泉森 皎先生(奈良県立橿原考古学研究所 特別指導研究員)

演題  「行基と大野寺土塔の建立」

奈良にも頭塔とよばれるものがありますが、堺には大野寺土塔があります。

一度も見ていないのですが、拝聴させていただきました。

「土塔は百舌鳥の土師氏が土を盛り、民衆の須弥山世界の表現として表現。海上ルートの仏塔を参考にした。

民衆の中心には行基がいた。」

刺激的な内容でした。


大安寺の唐三彩を発掘時のお話とか、いろんなお話も興味ありました。

感謝[ひらめき]
小谷城郷土館HP→http://kotanijo.jp/

邪馬台国 [歴史]

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邪馬台国はどこか?

歴史的に論争のある問題ですね。

九州なのか大和なのか興味が尽きませんが、たしかに吉野ケ里遺跡に行くと九州?

と思ったり、箸墓古墳を眺めるとやはり大和、纒向かな?と思ったりします。

我が街の「ミス○○」が「卑弥呼」と呼ばれて、今年で30回になるのです。

大阪教育大学故鳥越憲三郎教授の『大いなる邪馬台国』という本に、

大和郡山市西北の矢田地区に邪馬台国が当てられることで、当時の関係者が

「卑弥呼」と、名付けたようですね。

別に「邪馬台国祭り」みたいなイベントは全くありません。

市内で邪馬台国がここだと、信じている人はほとんどいないのではないでしょうか(^0_0
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